::遊女玉菊の墓::
吉原中万字屋の菩提寺永見寺にねむる遊女「玉菊」。
河東節の名手として人気があったが、25才で酒のために死亡したとの事。
吉原は、その死を悼み、お盆に灯籠をつるした。
以来、玉菊灯籠は吉原の年中行事になり、夜桜、にわかと共に吉原3大景物とされた。

::花やしき::
嘉永3年、植木屋六三郎が造園したのがはじめ。
その後明治18年に山本松之助が譲りうけ、小鳥や小動物を加え、入園料をとって営業した。
以後、持ち主が変遷し、見世物、猿芝居、なども加わり人気施設となった。
戦後は、遊園地として現在まで続く。

::浅草六区興行街::
単に「ロック」と呼ばれる。
明治の初め、浅草公園五区にあった興行物などを瓢箪池の西則六区に移転、
その後東京のみならず日本の代表的エンターテインメント街となる。
明治19年開場の「常磐座」(芝居)をはじめ、電気館(活動写真)、清遊館(浪花節)、
共盛座・大盛館(玉乗り)、日本館(娘都踊り)、清明館(剣舞)
明治館(大神楽)など多種多様な興行が行われた。
活動大写真から映画館へ、大正時代のオペラ人気から昭和のお笑い王国(エノケンの活躍)へ
次々に人気興行が続くが、現在はその面影もない。

::出山寺(しゅっさんじ)::
ここにも吉原所緑の「采女塚(うねめづか)」があります。
寛分(1661〜73)吉原雁金屋の遊女采女に惚れ込んだ若い僧が、采女に会わせてもらえず
格子の前で自害してしまいます。
采女は嘆き悲しみ、追うように鏡ケ池に身を投げてしまいます。
その時池のほとりの松に「名をそれとしらずともしれさる沢の あとをかがみが
池にしずめば」の短冊がかけてあったそうで、蜀山人が哀れみ、この塚を建てたとのことです。

::鷲神社(おおとりじんじゃ)::
お酉様で有名な鷲神社、酉市には熊手を売る露店が数百件と大変な賑わい
となります。(11月酉の日 1から3の酉まである)
ここには隣接してお寺もありまして、この日ばかりは仲良く市の仲間入りしています。
ちなみにお寺の方がもともとは大家だったようです。
(
鷲(わし)の宮として隣接の長国寺内に鎮座していた)

公式ホームページ

::樋口一葉記念館::
名作「たけくらべ」の一節に「廻れば大門の見返りや柳い長けれど、お歯ぐろ溝に灯火うつる
三階の騒ぎも、手に取る如く、明け暮れなしの車の往来に、はかり知れぬ全盛をうらないて
大音字前と、名は仏くされど、さりとは陽気の町と、住みたる人の申しき」と、
日記にも「行く車は3時よりひびきはじめぬ」と明治の文豪一葉は、吉原の繁盛を伝えています。

台東区公式ホームページ内「一葉記念館」

::浄閑寺::
「生まれては苦界、死しては浄閖寺」

「投げ込み寺」ともいわれる浄閑寺は、吉原の悲哀をたたえる場所。
身寄りのない女郎たちが捨てられるようにこの寺に葬られた。
吉原300年の間に、その数は2万千人にも及ぶとのこと。

さて、この寺にゆかりの有名人を探すと…
明治の文豪「永井荷風」が、この哀れを愛した。
自分もここに眠りたいと願って実現しなかったが、記念碑として筆塚、詩碑が建てられた。
スキャンダルでは、品川楼で情死した遊女製紫(せいし)と谷豊榮警部補の比翼塚がある。

又、大平洋戦争終戦後、大変な人気となった落語家「三遊亭歌笑」が、
絶頂期の中で、米軍のジープにはねられ死亡、この寺に葬られた。


::花川戸助六歌碑::
花川戸公園内の姥ヶ池後の傍にこの碑は建つ。
助六は、歌舞伎十八番「助六所縁江戸桜」(すけろくゆかりのえどざくら)に登場する花川戸の侠客。
実は、あだ討ちで有名な曽我兄弟の曽我五郎の仮の姿という設定。

助六の姿は、当時の「伊達男」のシンボル。
黒羽二重(はぶたえ)の小袖に、紅絹(もみ)の裏地の着付、杏葉牡丹(ぎょようぼたん)
友禅の五所紋(いつところもん)、下に浅葱無垢(あさぎむく)の一つ前、
綾織(あやおり)の帯、ぱっぱ鮫鞘(さめさや)、一つ印篭、背に尺八、江戸紫縮緬(むらさきちりめん)の
鉢巻を左に結び、蛇の目傘を手に颯爽と花のお江戸の吉原、仲の町に現れる。

この「助六」は、市川団十郎の代々の家芸として、得意としていた。
明治12年、9代目団十郎が日頃お世話になっている日本橋の旦那、須永彦兵衛のために
役者仲間とはかって感謝の記念碑を献じた。
「助六のゆかりの雲の紫を、弥陀の利剣で鬼は外なり」(団十郎の雅号)と贈ったのがこの碑。

::高尾太夫の墓::
吉原三浦屋の名妓、2代目「高尾」の墓が、春慶院にある。
2代目高尾は、万冶高尾、仙台高尾ともいわれ、大変人気があった。
仙台候伊達網宗が通いつめたといわれているが確かなことはわからない。
(本によっては、京町高島屋の「かおる」が相手とある)

ところでこの太夫というランクは、当時の最高ランクで(次席の遊女は格子女郎といわれた)、
彼女たちと遊びたい場合は、どんな高い身分の人でも「揚屋作法」というしきたりに
従わなければならなかった。(※揚屋作法は別の機会に紹介)

さてこの2代目高尾の墓は、実はもう一つあるとのこと。
以前吉原土手にあった西方寺、いま西巣鴨に移転、ここの没年は春慶院とは一年違う。
太田蜀山人は、春慶院の方を本物と書いているが、わからない。
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