吉原小史

御存じですか?
浅草吉原には300年もの歴史があるのです。ここでは簡単に吉原の歴史を御紹介して行きます。

300年の歴史を追ってみましょう。

1590

天正18年8月1日、徳川家康江戸城に入る。
慶長8年、1603年に家康が征夷大将軍となった事で江戸は大都市へと変貌していく。

1617 元吉原

あづま物語
引用:国立国会図書館デジタルコレクション

元和3年、江戸幕府は江戸各地に散在する
傾城屋(遊女屋)を風紀上一ケ処に集める為、現在の日本橋人形町付近に土地を与え営業させた。
この土地は葭葦(よしあし)が茂っている草原故に、”葭葦”(よしわら)と名付けたが、後に縁起を祝って”吉原”と称した。
又、業者達に東海道”吉原宿”の出身が多かったとの説もある。

この頃は、まだ夜の営業が許可されていなかったため、昼間しか営業せず訪れるのはほとんどが武家だった。
京の島原遊郭を範とし、格式の高さを売りとした吉原では、当初から一般庶民を客とは見なさなかった。

1657 新吉原

戸火事図巻|田代幸春
田代幸春 – 戸火事図巻(江戸東京博物館 Edo-Tokyo Museum :収蔵品), パブリック・ドメイン, リンクによる

その後、当地を幕府用地にする為、浅草か向島に移るように命じ、明暦3年江戸大火(振袖火事)で吉原も焼失したのを機に業者は交通の便等を考え浅草田甫に移る事にした。
以後旧地を元吉原、移転地を新吉原と称した。

北廓月の夜桜 – あづまの花 江戸繪部類より|田代幸春
引用:国立国会図書館デジタルコレクション

新吉原は直接内部が見えぬよう入り口を”くの字”形に造り、四方に堀(おはぐろどぶ)をめぐらし、遊女の逃亡と犯罪者の脱出を防ぐ為に要所に9つの跳橋を設け、非常に備え、表裏の大門は亥刻(午前12時)に閉じ、明朝(午前6時)に開いた。

江戸末期の新吉原の見取り図
De Becker, J.E., Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で

又、町造りは表門裏門の間を結ぶ通りを仲之町通りといい、その左右に江戸一(江戸出身者の業者)
江戸二(駿河出身)
京一(京都出身)
京二(上方の業者)
角町(京橋角町の出身者)
揚屋町(元吉原時代の揚屋業者)と大別し六ケ町とした。

江戸大地震之絵図「吉原地震焼亡之図」
引用:国立国会図書館デジタルコレクション

吉原はしばしば大火に見舞われ、主な大火は1768年、1787年、1816年、1835年、1845年、1862年、1864年、1866年。
吉原が再建されるまでの間、浅草周辺などに仮宅が設けられることがあった。

1871

The Far East – 世界文化社「写真で見る幕末・明治」より, パブリック・ドメイン, リンクによる
possibly by Kusakabe Kimbei (日下部 金幣) (1841 – 1934) , パブリック・ドメイン, リンクによる

明治4年、江戸二丁目から出火した火災で、約2/3が焼けてしまいました。
遊郭内の通りを拡張するよう命じられたためこれを機に洋風建築の妓楼が建てられた。

1911

明治44年、吉原大火
吉原の一角から出火し、火は吉原全体に燃え広がっただけでなく周辺の家屋などにも燃え広がり、約6,500戸を焼失した。

1923

大正12年、関東大震災

1945

昭和20年、東京大空襲

空襲3ヶ月後の6月に当局の命令で戦威向上と、治安確保の為、空襲下即再建着手し、8月、焼跡のビル(四ケ所)を改修して営業した。
そしてその月15日終戦となる。

終戦後、政府は進駐軍高級将校慰安所を設けるように要求し、業者はそれを隅田川沿いの橋場町の戦災を免れた料亭に設置した。

一方業者は戦前の”新吉原三業組合”を”新吉原カフェ喫茶協同組合”と改称し、その再建に努力したが、昭和32年売春防止法案成立により翌年3月末をもって、300年の廓の灯は消えた。

江戸時代より明治後期迄、江戸文化と政治経済の裏面をほしいままにしていたこの街も明治政府誕生により、政府高官が勢い薩摩・長州・土佐の地方色となり、その遊び方に高い格式と内面的な”徳川びいき”と都会意識があったのか地方出身者の政府高官等にはなじめず、必然と新橋・赤坂等の新開地に流れ、政界・官界ばなれとなりつつあったが、曲がりなりにも戦前迄は”日本の吉原”として存在しつつあった。

その華やかな社会にもかくれた種々の悲劇があった。
即ち三ノ輪の投げ込み寺(浄閑寺)、あるいは遊女が産んだ子供を毎月養育費をもらい、育てて生活をしていた人々(吉原出入りの小商人・職人が多かった。)
又、この地に住む子供達は、一葉の”たけくらべ”とは別に近代社会の目にその進学・就職・結婚に悩み、多くは住居地を他所に求めていった。

そして今、この地は現在、都内有数の”ソープランド”許可地となり、存在しつつあるのである。

よし原鳶福 荒井一鬼

トルコ風呂とソープランド

業者の正しい名称は「個室付浴場」であるが、一般世間は「トルコ風呂」と呼んでいたが昭和59年末(1984)トルコ大使館より、クレームが付いたので以後ソープ・ランドと称される様になった。
現在吉原ではすべての店が「浅草防犯健全協力会」に加盟して営業している。